足利市文化財愛護協会:小林一行さん
『歴史文化のまち足利』とは
一つは「足利市文化財愛護協会」です。発端は国の文化財保護委員会が「地域ぐるみで文化財を愛護する運動をもりあげよう」と1966年に全国の20市町村を文化財愛護モデル地区として指定したことです。関東では足利市と鎌倉でした。そうなんです。国が足利を歴史文化のまちとして認めた、ということになります。
二つ目は「足利市文化財一斉公開」。この文化財一斉公開は2006年40ヶ所の文化財を一斉に公開したことを皮切りに、以後60〜70ヶ所の文化財保有施設に参加していただき、現在にいたっています。残念ながら2020,2021年度はコロナ禍のため中止となってしまいましたが、これだけ多くの文化財を一斉に公開できる都市は他にはありません。もちん奈良市、京都市の保有文化財は足利市を上回っていると思いますが、一斉公開はしていません、そして有料です。足利市の場合は足利学校を除いて無料で公開しているのです。これは素晴らしくまた誇れるところであると思います。
足利長尾氏の概観
後ほど長尾氏については詳しくみていきますが、ここでは足利長尾の概観をみてみたいと思います。
1464年足利長尾初代の長尾景人が当時足利を支配していた古河公方軍に討ち入り、以後勧農城(岩井山城)を中心にして足利を支配することになります。その後2代定景、3代景長、4代憲長、5代当長と続き、6代顕長の1590年小田原北条氏と共に滅びています。戦国時代120年余り足利の支配者であった、これが足利長尾だ、ということになります。
足利長尾以前の長尾氏
皆さん足利市の教育庁舎の南に小さなお堂(お宮)があるのをご存じですか? 正面に「権五郎大権現」と書いてあります。そうなんです。この鎌倉権五郎平景政が長尾氏のルーツなんです。地元では「ゴンゴロ様」として親しまれているようです。他の都市には関東平氏五家の鎌倉氏、梶原氏、村岡氏、長尾氏、大庭氏の五家の霊を祀った「五霊宮」がありますが、足利では長尾氏の直接の祖である鎌倉権五郎のみを祀ったんですね。これも足利長尾の仕業でしょう。この権五郎、源義家(八幡太郎義家)に従って後三年の役(1083年)で奥州に行き、武勇を残したことが知られています。歌舞伎の「暫」は権五郎が主役となっています。権五郎の孫、景行の時に長尾を名乗ります。鎌倉長尾の始まりです。以後長尾新五郎平??と名乗るようになり、足利長尾(江戸時代も含む)に引き継がれていきます。
みなさんご存じのように足利尊氏は長男義詮を将軍として京に、次男基氏を関東支配のため鎌倉公方として鎌倉に置きました。そして鎌倉公方の目付役として関東管領の名で山内上杉家を鎌倉へ下向させました。鎌倉長尾氏はこの山内上杉氏の家宰として力を振るうことになります。そうです足利人には親しみのある上杉憲実もこの山内上杉で関東管領でした。鎌倉公方と関東管領の関係は徐々に悪くなり、遂に1454年鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉憲忠(憲実の息子)を暗殺してしまいます。この時に憲忠の家宰であった長尾実景も長男と共に殺されてしまいました。これで鎌倉長尾は途絶えました。以後関東は戦国の世へと入っていきます。私共の年代では戦国時代は1467年の応仁の乱から、と教えられましたが、関東では10年以上早く戦国が始まっていたのです。その後山内上杉家の家宰は長尾の傍流である白井長尾(群馬県渋川市)や惣社長尾(前橋市)が務めることになります。
足利長尾の詳細
初代景人
享徳の乱で殺された最後の鎌倉長尾である長尾実景の子供です。先ほども述べましたが、以後長尾新五郎を名乗ります。鎌倉長尾の直系になるわけですね。この景人のやった大きな事、それは足利学校の移転です。それまでの足利学校は現在の足利駅の南東、両毛線と渡良瀬川の間にあったと思われます。この場所は勧農城の近くでもあり、戦乱の影響を受けかねません。また渡良瀬川の氾濫の影響もあったでしょう。ということで安全な地に移したのです。景人がいなければ今の足利学校は失われていたかも知れませんね。後でも出てきますが、足利長尾は単に武だけではなく、文化にも関心を持っていたようです。曾祖父の建てた長雲寺を竜澤寺改めています。これが現在の西宮長林寺へと繋がっていきます。
2代定景
1472年に初代景人が亡くなり、長男の定景が勧農城主、足利荘代官のあとを継ぎます。が、3年後の1475年に亡くなってしまいます。
3代景長
初代景人の二男で7歳で家督を継ぎました。この景長の時代が足利長尾が最も隆盛だったかもしれません。景長は関東管領の家宰に復帰し、以後最後まで足利長尾が上杉家の家宰職を務めることになります。この景長のやった大きな事、それは居城を移したことです。それまでの勧農城から両崖山城へ移ったのです。この両崖山城は源性足利氏の前に足利を支配した藤姓足利氏(田原藤太藤原秀郷が祖)が築城したものですが、源性足利氏の時には使われていませんでした。そしてその周囲に七弁天を祀りました。これは同門の祖である平清盛が神戸に七弁天を造ったのを意識したのかも知れません。源性足利氏発祥の地、足利で「俺たちは平氏だ!」と言いたかったのかも知れませんね。そして竜澤寺を長林寺としています。
4代憲長
1528年、父景長の死により家督を継いでいます。この時代関東は古河(古河公方)、平井(関東管領上杉氏)、小田原(北条氏)の鼎立状態となっていましたが、足利領内は安定していました。憲長が越後の長尾景虎と詠みかえした歌も残っています。また心通院を建立しています。
5代当長
1551年、当長24歳で後を継ぎました。翌1552年主君である関東管領上杉憲政は北条氏の圧力に耐えかねて、長尾景虎を頼って越後へ逃げてしまいました。中興の祖である上杉憲実以来関東管領として九世百十余年にわたって関東の政・兵の権力を握ってきた山内上杉氏もここで終わりを告げます。上杉憲政から氏姓・関東管領職を譲られた長尾景虎は、上杉政虎と改名し、関東の平定を目指すことになります。ここで関東は小田原の北条氏康、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄の争いとなっていきます。足利長尾氏は関東管領職となった上杉謙信を支え続けます。
当長は隣の太田金山城主横瀬(由良)成繁の妹を室として迎えましたが、男の子が出来なかったため、成繁の三子熊壽丸を養子に迎えました。これが後の6代当主顕長です。1559年、館林城の赤井勝連を討って、足利・館林両城の城主となりました。また1556年には父憲長が創建した塔頭の心通院を小谷(現在の位置)に移しました。この心通院には憲長と当長夫妻の墓塔が残っています。現在西宮長林寺に足利市指定文化財である「長尾家墓塔」がありますが、足利長尾六代当主中当長のみがありません。三代景長から、憲長、当長三代は武人であると共に文人としても知られています。この三人は何れも現在国重要美術品となっている自画像を残しています。特に景長は狩野派の元信の師であると言われています。
6代顕長
1569年、当長が亡くなり、顕長が足利長尾家当主となりました。それから数年のうちに北条氏康、武田信玄、上杉謙信が相次いで亡くなり、関東は北条氏康の後を継いだ氏政の一人勝ちの情勢になっていきます。顕長はこのような情勢下、出身家である由良家と由良—長尾連合を組み、北条に対抗しましたが、遂に北条に取り込まれてしまいます。そして1590年、新たな勢力である豊臣秀吉軍によって北条氏は滅ぼされます。これに伴って長尾顕長は常陸の佐竹義宣預けとなって、常陸へ移されました。ここで120年余り続いた足利長尾家は歴史上姿を消しました。この1590年、顕長は國廣に布袋国弘、山姥切りの写しを作刀させています。
その後
まだこの後、母妙印尼、兄由良国繁との関係、何故足利には長林寺が二つあるのか? など顕長に関する歴史上事実は続きがありますが、今回はこの辺で終わりにしたいと思います。
最後に足利長尾時代に行われ、現在にも繋がっているものを下記します。
- 足利学校 長尾景人の項でも書きましたが、戦乱・洪水から避けるため移転し、現在に至っています。
- 町の成立 それまでの藤姓・源姓足利氏の寺院などが残る山麓部と鑁阿寺を中心とした自然堤防地の間を結びつけ、町を形成、その後の旧市街地となりました。
- 治水 上杉憲政の家臣であった大谷休泊を、憲政が越後逃亡後に水奉行として迎えました。休泊は渡良瀬川に三つの堰を作るとともに渡良瀬川南部に堀を巡らせ(三栗谷用水や休泊堀など)、邑楽〜館林の荒れ地を肥沃な土地に変えています。
以上見てきたように、足利長尾家は武人としてはひたすら関東管領家を守り続けてきました。そして文人として多くの美術品を残しています。
これが今回の市立美術館での展示「足利長尾の武と美」につながっているものと思います。
関東管領とその家宰
初年 | 関東管領の名前 | 系統 | 山内上杉家家宰の名前 | 系統 |
貞治5年 (1366年) | 上杉憲顕 | 山内 | ||
応安2(元)年 (1369年) | 上杉能憲 | 詫間 | ||
応安2(元)年 (1369年) | 上杉朝房 | 犬懸 | ||
永和3年 (1377年) | 上杉憲春 | 山内 | ||
康歴元年 (1379年) | 上杉憲方 | 山内 | ||
明徳3年 (1392年) | 上杉憲孝 | 詫間(山内) | ||
応永2年 (1395年) | 上杉朝宗 | 犬懸 | ||
応永12年 (1405年) | 上杉憲定 | 山内 | 長尾満景 | 鎌倉 |
応永18年 (1411年) | 上杉氏憲 | 犬懸 | ||
応永22年 (1415年) | 上杉憲基 | 山内 | 長尾満景 | 鎌倉 |
応永25年 (1418年) | 上杉憲実 | 山内 | 長尾忠政 | 惣社 |
永享12年 (1440年) | 上杉清方 | 山内 | 長尾忠政 | 惣社 |
文安4年 (1447年) | 上杉憲忠 | 山内 | 長尾実景 | 鎌倉 |
享徳3年 (1454年) | 上杉房顕 | 山内 | 長尾景仲 | 白井 |
寛正2年 (1461年) | 上杉房顕 | 山内 | 長尾景信 | 白井 |
文正元年 (1466年) | 上杉顕定 | 山内 | 長尾景信 | 白井 |
文明5年 (1473年) | 上杉顕定 | 山内 | 長尾忠景 | 惣社 |
文亀元年 (1501年) | 上杉顕定 | 山内 | 長尾顕忠 | 惣社 |
永正6年 (1509年) | 上杉顕定 | 山内 | 長尾顕方 | 惣社 |
永正7年 (1510年) | 上杉顕実 | 山内 | ||
永正9年 (1512年) | 上杉憲房 | 山内 | 長尾景長 | 足利 |
大永5年 (1525年) | 上杉憲寛 | 山内 | 長尾憲長 | 足利 |
享禄4年 (1531年) | 上杉憲政 | 山内 | 長尾当長 | 足利 |
湯山学中世史論集,1,関東上杉氏の研究,35
長林寺蔵長尾系図、長尾正統系図